明日
いよいよ
西爽亭
(倉敷市旧柚木家住宅)
での
ひなまつりコンサート
です!
どうぞ!皆さん遠慮なくお越しください。
細かいことは…
☟
BOSSに
~にゃんこ~
西爽亭は、昔の建物(*´∀`*)
旧主屋に付属する座敷棟で、木造平屋建・本瓦葺きの建物です。天明年間(1781~1789)に建てられたと伝えられ、備後国神辺(現在の広島県福山市神辺町)出身の儒学者である菅茶山(かんちゃざん)によって「西爽亭」と名付けられました。
西爽亭を構成する座敷棟・御成門(おなりもん)・茶室および庭園の中で、建築上特に優れているのが、御成門と座敷棟にある式台玄関です。通りに面する御成門は、本瓦葺きの薬医門形式で、屋根の四隅に意匠の凝った鬼瓦を乗せています。式台玄関は幅が2間あり、入母屋の屋根で、凸型に緩やかに傾斜したむくりのある唐破風様の妻飾がついています。
式台玄関を入ると、「取次の間」「次の間」「上の間」と続きます。「次の間」「上の間」は、内部の仕上げこそ格別華美というわけではありませんが、天井が比較的高く、ゆったりとした数寄屋風の書院になっています。さらに奥へ進むと湯殿・小便所・大便所・手洗いが配置されており、江戸時代の上級武士の生活の様子がうかがわれます。
屋敷地の南に建つ茶室は、台目(だいめ)3畳と中板からなる特異な平面をもつ部分と、庭の傾斜した部分に懸造(かけづくり)状に建てられた台目二畳の煎茶席で構成されており、美しい意匠をとどめています。
このような建築物群は、豊富な庭園の石組みと相まって、築造された天明期の風趣を漂わせています。
【西爽亭と熊田恰(くまた あたか:1825~1868)】
備中松山藩士熊田竹兵衛の3男として生まれた熊田恰は,慶応4年(1868),鳥羽・伏見の戦いの際,幕府方の藩主・板倉勝静の親衛隊長として大坂詰で活躍しました。
板倉侯から帰藩の命を受けた恰は,備中玉島港に上陸します。しかしこの時,松山藩は鎮撫使(明治維新政府が任命した臨時の征討長官)の征討を受けており,松山藩は恰の帰藩を認めませんでした。事情を知った恰は,行動を共にしている部下150余人の助命を嘆願し,西爽亭の次の間で自刃しました。
この史実は,熊田恰が自らの命と引き替えに多数の部下の命を救い,その結果,幕末の戦禍から玉島が救われた話として,現在も語り継がれています。
中は開放しているので、あったかい恰好して来てくださぃね♫
天井が高くて、「和」の雰囲気がとても素敵なところです。
今から楽しみにしていますヽ(*´∀`)ノ
~まき~